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トップページ コラム 【非戦ノート#2】

川名晋史『在日米軍基地――米軍と国連軍、「2つの顔」の80年史』(中公新書、2024)
公益社団法人アクト・ビヨンド・トラスト代表理事 星川 淳(作家・翻訳家)

朝鮮戦争と聞いても、大多数の日本人は「そんなの他所(よそ)の話だし、遠い過去のことでしょ」と思うだろう(もちろん朝鮮半島の人びとにとっては違う)。ところが、その他所事がゾンビのように現在も日本を縛り、今後さらに影響力を強めていくかもしれない。

本書は、見慣れているはずの風景を地形図か地質図から読み解くのに似ている。日本における基地問題といえば、多くは在日米軍基地であり、もちろん自衛隊基地に焦点が当たることもあるが、それ以外に国連軍の基地(正確には朝鮮国連軍後方基地)が存在することなど、普通は知らず、考えもしない。沖縄をはじめ基地問題に関心を持ち続けたり、身近なところでは隣の種子島(その沖合の馬毛島)で進む日米共用基地建設計画に反対したりする筆者もそうだった。しかし2024年の刊行直後に本書を一読し、日本の基地問題について根底から再考を迫る内容に圧倒された。読書ノートにまとめたいと思いつつ手が回らなかった2年以上のあいだにも、本書の重要性は増すばかりだ。

朝鮮国連軍とサンフランシスコ平和条約

まず、珍しく3度ほど通読しながら筆者がつけた付箋の数を見てほしい。歳のせいで読んだ内容がなかなか頭に残らないとはいえ、これだけ大量の付箋をはさむのは初めてかもしれない。とにかく、外せない要点が多すぎるのだ。以下に時系列を追って整理を試みる。

川名晋史『在日米軍基地――米軍と国連軍、「2つの顔」の80年史』(中公新書、2024)

日本が米国を筆頭とする連合国の占領下にあった1950年6月25日、朝鮮民主主義人民共和国(以下、「北朝鮮」と略記)人民軍が北緯38度線を突破して朝鮮戦争が勃発。創設間もない国連安全保障理事会の「勧告」(正式な国連軍の編成には「要請」が必要)に基づいて、国連旗の使用が許された米国の有志連合軍を通称「朝鮮国連軍」と呼ぶ。開戦から約2年半の時点で、この朝鮮国連軍には27か国が参加し、1953年7月27日の停戦まで戦争状態が続いた(終戦に至っていないため現在も形式的には戦時中)。なお当初、米軍はもちろんこれら参戦国の一部は占領軍として日本に駐留し、それを足場に朝鮮半島へ出撃した。

そんな中、1951年9月8日には、サンフランシスコ平和条約と(旧)日米安全保障条約の締結によって建前上、日本は独立を回復する。安保条約の細則を定めるものとして日米行政協定も結ばれた。ところが、米軍の日本駐留だけを前提とするサンフランシスコ平和条約と日米安保条約では、日本占領軍の一端を担い、朝鮮戦争にも参戦していた他国(英連邦軍など)の地位が宙に浮いてしまう。米国にとっては朝鮮での戦力維持も重要課題だった。

そのため、サンフランシスコ平和条約第5条により「国連憲章第2条に基づく義務履行の約束(国連が憲章に従って取るいかなる行動についてもあらゆる援助を与える)」 を日本に課し、朝鮮国連軍の参加国に引き続き基地使用を認めるという内容の「吉田・アチソン交換公文」を取り交わした上で、それらの国々とは日米安保条約に基づく行政協定とは別に「国連軍地位協定」を締結することにした(前者の運用機関である「日米合同委員会」と一線を画して、国連軍地位協定の運用機関は「合同会議」)。つまり、朝鮮国連軍の参加国に関する限り、日米安保条約とは別個に、サンフランシスコ平和条約に直接紐づける形で、日本が米軍に対するのと同等の優遇を与える極めてアクロバティックな取り決めだ(※)。しかも、その対象地域は朝鮮半島に限定せず、中国や台湾への戦闘拡大まで想定して「極東」とされた。当時の日本政府は、独立と国際社会への復帰と引き換えにすべて丸呑みするしかなく、むしろ国連軍参加国の駐留継続を歓迎した。日本の国会承認を受けて1954年6月11日に発効した国連軍地位協定には、これまで米国のほかカナダ、ニュージーランド、英国、南アフリカ、オーストラリア、フィリピン、フランス、イタリア、タイ、トルコが署名している。

(※ 朝鮮国連軍については他にもアクロバットが多いのだが、当時まだ国連に加盟もしていなかった日本に国連憲章に基づく義務を課したり、国連軍地位協定を結ばせたりする米国の無茶ぶりが際立つ。とにかく、ここまでのところでは国連軍地位協定が、休戦中であって終結には至っていない朝鮮戦争の継続を要件とし、日米安保条約ではなくサンフランシスコ平和条約に基づいているという特異性を頭に入れてほしい。)

二足の草鞋を編む

国連軍地位協定をもう少し詳しく見ていくと、国連軍の軍人は日本への出入国にパスポート審査を免除され(軍属+家族も)、日本の港湾と空港の使用に入港料も着陸料も課されず、基地が不要になったときの原状回復や補償の義務を負わず、租税・関税なども免除され、公務執行中の犯罪とみなされれば日本に第一次裁判権はない。これらの条件は、(旧)安保条約の日米行政協定と、その後改定された(新)安保条約下の日米地位協定に準ずる。

さらに微妙なのは、国連軍地位協定に現行の日米安全保障条約(1960年締結)にあるような「事前協議」の取り決めがないことと、国連軍が在日米軍基地を使用できること(後述)。後者は在日米軍基地の“又貸し”公認を意味する。一つの事例を想定すると、仮に朝鮮戦争が再開し、米軍が国連軍に編入された場合、米軍は日米安保条約の事前協議に制約されることなく在日米軍基地を使えるようになる。また国連軍地位協定の下では、参加国が日本に駐留させる兵員数を日本政府が制限できないとの国会答弁もあって、そのフリーハンドぶりは半端ではない。

少し時系列を飛ぶが、近年、英国やフランスなどが軍艦を日本に周航させ、米軍ばかりか自衛隊と合同訓練を行なったりするケースでは、この基地の“又貸し”特典を利用して、朝鮮国連軍後方基地に指定された米軍基地に寄港することが多い。同じく、北朝鮮に対する近年の経済制裁に関連した“瀬取り(制裁破りの海上における積荷受け渡し)”の警戒監視活動でも、米国以外の国連軍参加国が航空機の運用上、米軍基地を利用することがある。

再び時系列を巻き戻して、1960年1月19日に(新)日米安全保障条約が調印される。日本の社会運動史に深く刻まれた「(反)安保闘争」の眼目である。

その2週間前の同年1月6日、藤山外相とマッカーサー駐日大使とのあいだで、「米軍が国連軍として朝鮮に出ていく場合には事前協議の対象としない」(大意)とする「朝鮮議事録」が作成された。さらに安保改定後の1969年11月21日、沖縄返還合意に伴う「佐藤・ニクソン共同声明」に「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要」とする「韓国条項」が明記され、佐藤は声明に際する演説でも、朝鮮有事に当たり在日米軍が直接作戦行動を取ることについて「前向きに、かつすみやかに」態度を決定する意向も示した。「韓国条項」と佐藤の論旨に従えば、新たな日米安保条約のもとでは朝鮮有事≒日本有事だから在日米軍の直接出動は容認され、「朝鮮議事録」は不要になったと解釈できる。日本側はこの解釈によって朝鮮議事録が失効したとみなす一方、米国側はあいまいさの残る沖縄返還声明の「韓国条項」より、密約とはいえ政府間の合意事項である「朝鮮議事録」を重視して、1974年の政府方針で同議事録を「未解決のままとし、正式に消滅させることはしない」と定めた。

1960年の安保改定における最重要課題の一つは、「吉田・アチソン交換公文」の改定(「吉田・アチソン交換公文に関する交換公文」)だった。ここで「吉田・アチソン交換公文」と「国連軍地位協定」の親子関係(元々は同交換公文に基づいて国連軍地位協定が結ばれた)が逆転され、在日国連軍が存続する限り、同交換公文も維持されることが決まる。これにより、米国にとって国連軍地位協定の重要度(使い勝手)が飛躍的かつ決定的に高まった。ちなみに、安保改定に先立つ1957年7月、東京にあった国連軍司令部が韓国のソウルに移され、日本には「国連軍後方司令部」(当初はキャンプ座間、2007年より横田基地に移転)が新設されて、日米韓の安全保障に強い軍事的リンクが形成された。

国連軍後方司令部(横田)

ただし新たな交換公文は、国民の反発を抑えたい日本側の意向で表向きは改定後の日米安保条約が国連軍にも適用されると明記しているため、在日国連軍としての米軍が事前協議に縛られることを絶対に阻止したい米国が、「朝鮮議事録」という密約の形で先手を打ったわけだ。本書によれば、このあたりの経緯は一次史料が少ないようだが、日米安保改定に伴う吉田・アチソン交換公文の改定で日本側がこだわった2つの点――1)対象地域を「朝鮮(半島)」に限定することと、2)国連軍の作戦行動にも「事前協議」が適用されること――は、1について米側が譲歩(後に日本政府自身、「さらなる国連決議があれば検討の余地がある」との国会答弁で後退)、2は「朝鮮議事録」という密約で骨抜きにされた。その結果、新安保と新交換公文と「朝鮮議事録」を組み合わせれば、在日米軍は事前協議に縛られるが国連軍としての米軍はフリーハンドを保つことになり、万一、日米安全保障条約が効力を失う事態が起こっても、米軍は国連軍に草鞋(わらじ)を履き替えるだけで在日米軍基地と作戦行動の自由とを維持できる一定の法的裏づけを得た(とりあえず朝鮮有事関連に限るものの、今後、台湾有事などに拡大解釈されない保証はない)。これが本書のキモである。また、朝鮮国連軍に参加する他の国々は、日米によるこうした複雑な交渉経緯を認識しないまでも、在日国連軍基地から行なえるのは兵站任務に限定されることを理解した上で国連軍地位協定に署名している。

在日米軍在日国連軍
法的根拠日米安全保障条約(新・旧)サンフランシスコ平和条約
細則日米行政協定(旧安保)
日米地位協定(新安保)
国連軍地位協定
運用機関日米合同委員会国連軍合同会議
付帯文書(一部密約)「朝鮮議事録」(新安保調印前)
「韓国条項」(沖縄返還合意の佐藤・ニクソン共同声明)
「吉田・アチソン交換公文」(旧安保)
「吉田・アチソン交換公文に関する交換公文」(新安保)
日本によるチェック事前協議あり事前協議なし
在日米軍と在日国連軍の比較

死活を賭けた綱渡り

では、在日国連軍基地(正確には国連軍後方基地)はどこにあるのか――本土は横田、座間、横須賀、佐世保の4か所、沖縄は嘉手納、普天間、ホワイトビーチの3か所(その由来から、すべて米軍基地)。しかも沖縄の3か所は米軍政から日本返還の当日(1972年5月15日)、国連軍基地に指定されており、この事実は重い。

本書では1960年代後半以降、本土の米軍基地が整理・縮小され、一部が沖縄へ移転することで、現在のような沖縄の過重負担(2023年時点で米軍専用施設の約70%)が固定化される経緯にかなりの紙幅を割いているが、本稿では省く。ただし、当時の米国がグアムや米本土への移転に比重を置いていたのに対し、日本側が懸念する“見捨てられ感”に配慮した結果、沖縄なら「日本放棄」の印象を薄められると考えた史実は、いまも変わりばえしない論点として特筆に値する。

とはいえ、とくに米軍の本音としては、日本返還後も沖縄の米軍基地を温存し、できる限り運用上のフリーハンドを維持したかった。そこで、前述のとおり嘉手納と普天間とホワイトビーチの3基地を在日国連軍基地に指定し(建前上、国連軍合同会議の決定だが、実質的には米国の意向そのまま)、少なくとも朝鮮有事およびその延長線上の軍事行動に関する限り、それら3基地を含む日本国内7基地からの作戦は日米安保条約が定める「事前協議」の対象にならない可能性と、米軍以外の外国軍に“又貸し”して兵站支援を受ける足場を残した。ちなみに沖縄での基本的な棲み分けは、嘉手納が空軍の戦闘機用飛行場、普天間は海兵隊が使う輸送機の基地、ホワイトビーチは運用面で長崎県の佐世保基地と一体をなす海軍の軍港である。またこのかん、普天間基地と在沖海兵隊は1968年当時の完全撤退計画から一転、米軍部の意向で存続・強化が図られて現在に至る。

ところが、1972年の電撃的な米中和解をきっかけに、朝鮮国連軍はいったん解体が視野に入った(その後、再度の米中緊張傾向により解体話は立ち消えとなる)。1975年の時点で、日本には11の国連軍基地が置かれ、米国以外の国連軍参加国にとっても、休戦から20年経った在日国連軍基地への要員派遣などは財政負担が大きかったのだ。

鍵を握るのは、在韓国連軍司令部付きの儀仗隊に参加するとともに、在日国連軍には要員と輸送機を派遣して米軍以外に唯一の存在感を示していたタイ軍だった。そのタイが1976年3月、国防予算の逼迫を理由に日本からの撤退を米側に通告する。米国にとってこれ以降の展開は、米軍を除く在日国連軍の実態がなくなれば国連軍地位協定が失効し、吉田・アチソン交換公文も死文化するというドミノ倒しを防げるか、ギリギリの綱渡りだったが、細かく顛末を追うと本稿がさらに膨らむため、以下に要約する。

窮地を救ったのは、タイ軍撤退の隙間を埋めた英軍とフィリピン軍の将校派遣、そして在日国連軍が抱える構造的な存続問題を解決したのが、英連邦諸国からローテーション方式による在日国連軍への将校派遣を、在京大使館つき武官着任準備の語学研修と組み合わせる日米連携の特典提供(国連軍任務の内実が日本語習得でも構わないとするさらなるアクロバット)だった。日本政府は一貫して、米軍への依存度を多少なりとも低めに印象づける野党および世論対策上の配慮から在日国連軍の駐留継続を望み、しかもそれを公(おおやけ)にしないことを米側と示し合わせていた。

こうした努力の結果、存続の危機が落着した1985年時点で在日国連軍には各国から34名の要員が派遣され、その後も途切れることなく、2023年時点で国連軍後方司令部にオーストラリア軍将校など3名が常駐、英連邦諸国を中心に9か国の武官が連絡将校として在京大使館に駐留する現状(推定)につながった。この綱渡りを仕切った当時のマンスフィールド駐日米大使は、なんとか守り抜いた国連軍地位協定について「(米国が)同盟国と協調して行動するための法的な“隠れ蓑”」と打電した。また本書の著者は、「(1972年の)米中和解は在日国連軍基地の存続を危うくするどころか、それを長期的に持続させる転機となった可能性がある」と述べた上で、「在日国連軍の存続をめぐる政治過程は、同基地が極東において事実上の多国間安全保障枠組みを起動させる装置としての安定性を獲得していく重要な局面だった」との興味深い見解を示す。

応用問題としての在日国連軍

本書の後半では「普天間と辺野古――二つの仮設」に1章を割き、日本における朝鮮国連軍の後方司令部と後方基地が現実にどんな役割を果たしているかを取り上げる。とりわけ、普天間基地返還≒辺野古移設問題については、普天間が国連軍基地であるという、従来ほとんど注目されなかった重要要素を加味すると何が見えてくるのか、著者の考察を駆け足でたどってみたい(詳細は本書を!)。

冷戦終結とともに日米安保の正当性が揺らぎ始める中、フィリピンのピナツボ火山噴火(1991年)とアキノ新政権の要求で同国から撤退を余儀なくされた米軍の移転が沖縄のさらなる基地負担増を招いてまもない1995年、米兵による少女暴行事件(被疑者3人のうち2人が海兵隊員)と、それに続く復帰後最大規模の県民集会をきっかけに、日米両政府は在沖米軍基地の整理・統合・縮小に向けて「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」を設置する。その目玉が普天間(海兵隊基地)の返還だった。

SACOの細かい経緯には立ち入らないが、米側は当初から「海兵隊の作戦行動における普天間の役割を完全に代替すること」を移転先の必須条件とし、その“役割”に国連軍基地であることも含めていた。また辺野古・大浦湾については、1960年代に埋め立て滑走路や軍港込みで具体化寸前だった「マスタープラン1966」を下敷きとし、軟弱地盤の問題も織り込み済みだったと思われる。ちなみに、このマスタープランも軟弱地盤の存在も、辺野古移設に反対する市民運動側は早くから指摘していた。しかし、SACO全体を通して米側の戦略は、普天間返還と辺野古移設を含む課題処理のベクトルを日本側の要望と見せることだった。

ご存知のとおり、辺野古移設が現在の形に固着したのは2009年から2010年にかけて、この問題を「最低でも県外」と準公約に掲げながら劇的な政権交代を果たしたにもかかわらず、最後は「学べば学ぶにつけ(現行案への逆戻りしかない)」と総辞職に追い込まれた民主党(当時)鳩山政権に負うところが大きい。この挫折に関しては、米側の強い反発や、それを忖度した日本側官僚のサボタージュなど諸説あるものの、本書では少なくとも国外移設の可能性について、普天間の国連軍基地機能を国外に持ち出せないハードルが立ちふさがったことを重視する。加えて、「(海兵隊の作戦行動における)普天間の役割を完全に代替する」という米側の所与条件も、沖縄県外では満たせなかったようだ。

国連軍基地の機能が一定の重みを持つ背景には、1993~94年の北朝鮮核危機や1996年の台湾海峡危機があり、SACO関連の米側準備文書に「朝鮮有事において反撃の拠点となる航空施設として利用可能なもう一つの国連軍基地」が条件として明記されたり(1996年)、SACO中間報告(1996年)に先立つ国会で橋本首相(当時)が普天間飛行場を国連軍に提供している点に言及したり、国会答弁で外務省北米局長が「(普天間移設先の性格および法的根拠について国連軍)合同会議の場で他の(国連軍地位協定)締約国と協議していく」と述べたり(2006年)していた。ところが、県外・国外への移設を必死に検討したはずの鳩山首相(当時)は、国連軍という要素が頭になかったらしい。本書の著者はここに躓(つまづ)きの石を見る。

国民不在の多国間安全保障

最後に、本書の最終2章「準多国間同盟の始動」と「二つの顔」を通して、著者が在日国連軍の存在をどう捉えるかをご紹介しよう。筆者としては頷(うなず)けない部分もあるが、事実と実態を踏まえなければ非戦の未来も拓(ひら)けないからこそ、研究者としての真摯な分析に耳を傾けたい。

まず、好むと好まざるとにかかわらず現状認識が必要なのは、戦後日本の歴代政権が積み重ね、とくに1990年代以降、米国/米軍との密接な擦り合わせを経て、2015年成立の「平和安全法制」(平和安全法制整備法+国際平和支援法)で完成形に近づけたとされる安全保障の枠組みである。この法律に続く「物品役務相互提供協定(ACSA)」(文字どおり主にモノのやりとりに関する取り決め)と「円滑化協定」(主にヒトの出入りに関する取り決め)と相まって、日本政府および自衛隊が米軍だけでなく他の外国軍に対し平時から有事まで切れ目なく各種の支援を行なうことが可能になった。それを裏づけるのが、これらすべての法律に従来の「米軍」ではなく「米軍等」と書き加えられたことだ。

微妙なのは、平和安全法制に関連する米軍「等」の外国軍が、本来の自国軍としてふるまうか、朝鮮国連軍参加国の草鞋を履くかを選べる点(というか選ばなければならない)。前者の場合は平和安全法制と関連法に基づき、後者は国連軍地位協定に基づくため、その選択によって活動の際のメリットとデメリットとが異なる。これまでのところ前者に属するACSAを締結したのは米・豪・英・加・仏・印で、そのうちインド以外の国々は国連軍参加国でもある。同じく前者に属する円滑化協定は英・豪・比が締結済みで(仏とも交渉中)、3か国とも国連軍参加国として国連軍地位協定も結んでいる。平和安全法制以降、米軍と同じく二足の草鞋を履き分けられる国が増えつつあることがわかるだろう。

このあたり、法的な詳細は煩瑣なので一つ実例を挙げる。2021年9月、北朝鮮の“瀬取り”対応でクィーン・エリザベスを旗艦とする英国の空母打撃群が国連軍基地である米軍の横須賀基地と佐世保基地に寄港した。もしこのときの艦隊が、“瀬取り”の警戒監視活動後に朝鮮国連軍の一員から通常の英軍に草鞋を履き替えれば、自衛隊基地にも自由に出入りし、日英ACSAに基づいてモノの提供を受けることも(有事でない限り日本は国連軍参加国に兵站協力できないのと対照的)、親善訪問や共同訓練を行なうことも可能だった。

このように、自国軍としてか国連軍参加国としてかを問わず、日本および「極東」(おそらく台湾有事も含む)における軍事的対応にコミットする国が増えていることを、本書は戦後の安全保障政策を転換する事実上の「多国間安全保障」と位置づけ、米軍だけが頼りの日米安保より一歩前進と前向きに評価する。実際、すでに朝鮮国連軍に参加しながら、平和安全法制に連なるACSAおよび円滑化協定を結んだ国々(いまのところ米・英・豪・比)は、存立危機事態が言及する「日本と密接な関係にある他国」に該当し、文字どおりの軍事同盟国となっているのかもしれない(私たちが知らないうちに!)。

一方、本書の著者が否定的に評価するのは、その「私たちが知らない」ということであり、もう少し踏み込んだ表現では国会や有権者のチェックが働いていない「民主的統制の不在」である。それどころか、外国軍が国連軍として在日国連軍後方基地(すべて米軍基地)に入ったあと何をしているのか、米軍基地に立ち入れない以上、日本政府さえ確認するすべがない。筆者が長々と本稿を綴ってきたのも、まさにその点に危機感を抱くからだ。歴史の忘れ物さながら視野の外だった朝鮮国連軍を米国が周到に延命させ、21世紀に入るや、ある種自動的に日本が多国間安全保障を指向する仕掛けの要(かなめ)になっていた。しかし、同じ多国間安全保障を考えるなら、東西冷戦の焼き直しのような、武力行使を前提とした仮想敵国包囲網ではなく、もっと本気で東アジアの周辺諸国と向き合い、万難を排しても溝を埋める方向をめざすべきではないか――筆者はそう感じてしまう。戦後の日本では「国連」の名がつくと野党も国民も脇が甘くなりがちだったが、朝鮮国連軍は成立の経緯から“なんちゃって”な国連活動であり、油断は禁物!

著者によれば、本書は元々、学術研究の成果発表(論文?)として書き進める予定だったところ、一次史料収集のハードルが高すぎて、軸足を「学」から「社会(貢献)」へ移したそうだ。そのためか、本書には筆者が取り上げたほかにも参考となる情報や論点がぎっしり詰め込まれており、ぜひ一読をお勧めしたい。たとえば、2015年以降の政権が平和安全法制により限定的な集団的自衛権の行使が可能になったとする点に関し、著者は戦後積み重ねられてきた政府見解どおり個別的自衛権の枠内で対処できるはずだという。米国の要求で苦しまぎれに「集団的自衛権」を持ち出すより、筆者も本書の指摘に同意する。

大国のタガが外れて暴走・逆走する時代、とくにトランプ政権で凋落著しい米国は、日米安保も国連軍地位協定もかなぐり捨てて「とにかくオレの言うとおりにしろ!」と、いつなんどき日本政府と自衛隊に無理難題を吹っかけてこないとも限らない。本書はその備えになるだろう。

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