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トップページ コラム 【abt徒然草】 #14「わからない者は幸いである――蚊とカマドウマと黒ヒョウの話」

アクト・ビヨンド・トラスト(abt)のメンバーが、日々感じたことを徒然に綴る「abt徒然草」、第14回目は、助成担当の八木です。

子どものころ、男の子たちと野山で遊ぶのが好きでした。でっかいアメリカザリガニやカマキリを臆さず素手でつかめることは、とてもカッコイイことです。というか、できないとダサい。虫をみて「キャー」なんて黄色い声を上げることはダサさの極致なので、はい、すみません。女の子にわざとカマドウマをけしかけて怖がらせたりしてました。

単に仲間うちでの沽券を気にしていただけではありません。生きものが人間の都合だけで気味悪がられたり、害虫だとして殺されることが不条理であると、幼いなりに変な義憤に駆られていたのです。毒も害もない虫を気味悪がるなんて勝手な話だと、気取った女の子たちをからかってみたかった。私は、あんなダサい女にはならない。ゴキブリもクモも、生きものとはすべて分け隔てなく仲よくしたい、と。

しかし、そういう生き方を自分に課したところ、深刻なジレンマに陥ることになります。自分にも殺したい虫がいる……それは蚊でした。痒いのは嫌だから、やられたらやり返すのはありにしたとしても、キンチョールみたいな化学兵器を使うのは身一つで刺しに来る敵に対して卑怯だ。バカみたいですが、子どもは真剣に悩んだ。

そこで、一人部屋を与えられると、自分でルールを作りました。「一騎打ち勝負、飛び道具はナシ」です。夜中に蚊の羽音で目を覚ましたら、いきなり蛍光灯をつけて、部屋中を追いかける。手のひらでパチンとつぶせたら、私の勝ち。刺されっ放しで逃げられたら私の負け。そういう勝負です。傍から見たらじつに滑稽ですが、本人はこのやり方でないと気が済まない。

それでも人間が人間である以上、すべての生きものと仲よくなるなどという感傷は、すぐに矛盾に直面してしまいます。魚も食えば、肉も食う。こんなジメジメしたドブで暮らすのはかわいそうと、きれいな花壇に無理矢理移住させたミミズは、死んでしまいました。自分の足で虫を踏み殺したくなくて、お供に担がせた輿に乗っていたという偉いお坊さんの話でしたっけ、結局数人がかりで輿を担ぐお供が踏み殺す虫の数のほうが、一人で歩くよりも多かった、とかなんとか。うろ覚えですが、そんな話がやけに胸に迫りました。

大学生になったころ、ちょっとした成り行きで拾ったネコと暮らすことになりました。このネコ、人間の都合などまったく眼中にありません。明日提出するレポートの上に糞をするやら、いちばん高価なセーターだけ狙ってボロボロにするやら、失恋して泣いているところに、もっと遊べとタンスの上から飛び降りて攻撃をしかけてくるやら。だけど不思議とネコのやらかすことはすべて楽しくて、結局笑ってしまうのですね。

擬人的な感情移入を拒み、人間のよかれと思っての忖度をことごとく裏切るネコの姿は清々しい。それで、ふと思います。人間もネコの都合がわからないし、ネコも人間の都合などわからない。わかり合えないということは、淋しいけれどなんて幸せなんだろう。相互理解という幻想を泣く泣く捨てると、そこに初めて他者とかかわる責任も生まれるし、尊重すべきあらゆる存在の自由がある。そんな希望を、ネコは頭でっかちの人間に教えてくれたのです。

そしてある日ネコは出て行きました。毎日部屋の扉を開けて待っていましたが、二度と帰ってきませんでした。ネコが私に愛想を尽かした理由をあれこれ考えもしましたが、やっぱり本当のところはわかりません。仕方なく、えらく凶暴だったあのネコは、友達が冗談で言ってたみたいに本当はネコではなく黒ヒョウで、今も緑多い岡上山の山中で、峠を超える旅人を襲ってはむしゃむしゃ喰って元気に生きているのではないか……そんなご都合主義な妄想で、消えない罪悪感を紛らわしています。

だけど夢でみるのはいつも、どこかに閉じ込められて鳴いているネコを必死で探していて、ああよかった、こんなとこにいたんだね、という場面ばかり。

私に自由を教えてくれた黒ネコよ、どうか幸せでいてほしい。人間のほうは、今も矛盾をかかえて生きながら、蚊やミミズやカマドウマの幸せも何とかしなきゃと、相変わらず的はずれな知恵を絞る毎日です。

写真は懲りずに育てたクロアゲハの羽化。もう多分ネコは飼いませんよー。