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トップページ イベントレポート 【Future Dialogue】第4回 公正で持続可能な社会に向けて ~SDGsと脱成長コミュニズムから資本主義を問う~

格差や不公正・不平等、そして気候危機という現代社会の課題をどう打開していけばよいのか。第4回Future Dialogueでは、行き過ぎた資本主義へのオルタナティブを提唱して注目されている斎藤幸平さんと、農と環境の分野の先駆的な研究やNGO市民セクターでの発言を長年続けてこられた古沢広祐さんをお迎えして、対話の場を設けました。斎藤さんが提唱する「脱成長コミュニズム」、古沢さんが早くから示してきた「永続可能な社会の発展」について、お二人の分析と検証を交えながら、持続可能な社会へのシステムチェンジの可能性をお話しいただきました。

 


 

講演1:斎藤幸平(さいとう・こうへい、大阪市立大学大学院経済学研究科准教授)
「”脱成長”の過去・現在・未来」

斎藤幸平/大阪市立大学大学院経済学研究科准教授

1987年生。著書『人新世紀の「資本論」』(集英社新書)は、「新書大賞2021」に輝き、経済書としては異例のベストセラーに。ベルリン・フンボルト大学哲学科博士課程修了。『大洪水の前に』(堀之内出版)で、権威ある「ドイッチャー記念賞」を日本人初歴代最年少で受賞。専門は経済思想、社会思想。大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。

 

SDGsは気候変動を止めることができるのか?

こんにちは、斎藤です。本日はディスカッションをしていくにあたり、簡単に本の内容を、復習がてらという感じでお話を進めていきたいと思います。『人新世の「資本論」』は昨年9月、1年前に出した本ですけれども、基本的にここで書かれていることの内容はまったくもって変わっていない。むしろその妥当性を今、増していると思います。

本の冒頭に書いているので、多くの人もご存じの「SDGsは『大衆のアヘン』である!」というフレーズがあります。古沢さんは『食・農・環境とSDGs 持続可能な社会のトータルビジョン』という本を出されていて、SDGs(持続可能な開発目標)をどう見るかという話も、今日はひとつの論点になってくると思います。ちなみに古沢さんは、脱成長についても本(『地球文明ビジョン「環境」が語る脱成長社会』)を出されているので、意見は重なるところもありますし、SDGsというものは理念自体はいい。

しかし現実において、特に日本のような環境でSDGsが導入されていくと、消費者にとって「自分の消費活動が地球環境に悪いことをしているんじゃないか」という良心の呵責をやわらげるものになってしまう。一方で、企業にとっては「うちの商品をもっと買ってください、安心して消費してください」というようなメッセージを発信する道具になってしまう。そして、消費者もマイバッグ、マイボトルを持って何かいいことをしているというような幻想に陥ってしまう。今、求められているのはシステムチェンジですけれど、結局は本来SDGsが求めていたトランスフォーマティブ・チェンジ(※注1)は骨抜きにされて、今までの生活を続けるための免罪符になってしまっているということです。

SDGsにおける課題は気候変動だけではありませんが、気候変動の一例をとっても、去年コロナ禍によって世界の二酸化炭素の排出量は大幅に減りました。初めてといっていいほど減ったわけですけれども、世界各国が目標としている2030年の50%削減に向けてもっと減らしていこうとならなければいけないはずだし、今年開催されたCOP26(国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議)では、あたかも政治家たちが「自分たちはがんばっている」というジェスチャーを見せている。ところが現実問題としては、今年の二酸化炭素の排出量はリベンジ消費云々で約5%増えるのではないかと言われていて、コロナ前の状態に戻ってしまう。コロナ前の道に戻るということは、長期的に見ると人類は破局への道を突き進んでいるということになるわけです。

これが、いわゆるグリーン・ニューディール(※注2)やSDGsの現実だということですね。何か華やかなことが起きるのだという約束の裏では何の進展もない。これはよくある話なんです。AIも、すごい高性能のロボットができて「人類は職を失う」という話があるわけですけれど、10年、20年経って何か変わったかというと、全然そんなことはない。

人類の経済活動が環境破壊をもたらす「人新世」

そういうことを言っている間に、危機は着々と進んでいます。私は本の中で、このような人類の経済活動が地球上を覆いつくす年代を「人新世(ひとしんせい)」と書いていますが、なぜ「人新世」という概念とからめて話す必要性があるかについて述べると、要するに人類が地質学的な力を持つようになっている点が重要なわけです。今まで地質なんていうものは、人間とは独立して存在していると思われていた。ところが、ついに人類が地質さえも改変する力を持つようになってしまった。それは20世紀に起きて、21世紀になってさらに加速している。

この状況は、コロナ禍であったり、さまざまな感染症によるパンデミックであったり、気候変動という形であらわれています。同時に、私たちがここで今どういった選択をするかということが、まさに地質学的な選択として問われている。それは今後、地球上において10年、20年の話ではなく、(現在の)完新世も1万年続いているわけであって、1万年単位の影響を地質におよぼすような力を今の私たちが持っているということです。これが気候変動という形で、実際に長期的な、不可逆的な変化を地球にもたらすようになるであろうということが言われている。そして、コロナ禍をきっかけとして、行き過ぎたグローバル化のもとでの格差や環境問題は是正しなくてはいけないのではないかという声が高まってきて、それが資本主義のグレート・リセットという形で、世界のエリートたちによっても認識されるようになっている。

持続可能な社会をつくるために――対立する二つの方向性

じゃあリセットして何をめざすのか、ということが重要なわけです。これはSDGsにしても何にしてもそうですが、その際に二つの方向性があります。ひとつは、危機に対して残された時間がわずかだからこそ、既存のシステムを使わないといけない、今ある現実的なやり方から変えていかない限りは対応できないんだ、と。そのためには政治家や企業を巻き込む必要があるし、国連などの機関を使っていく必要があるし、市場メカニズムを使っていく必要がある。こういったアプローチをしていくと、「緑の経済成長」を進めていきましょうとか、政治家や官僚にロビイングをしようとか、選挙でそういうことを訴える候補者たちに投票しよう、みたいな話になっていくわけですね。これはいわゆるグリーン・ニューディーラーの路線になる。

私はそういう路線はとらなくて、今までの枠組みは失敗してきたわけであって、むしろ時間がないからこそ今までのやり方から決別しなくてはいけない。既存のパワーバランスを用いて転換するのではなく、既存のパワーこそが今の危機を生み出しているのだから、パワーのあり方そのものを変えていかなければいけない。そのようなラディカルな運動が出てこない限りこの危機は止めることができない――これが脱成長、ポスト資本主義という、もうひとつの立場になるわけです。

日本ではこのような二つの対立軸はそもそも存在していません。しかし、欧米を見ればわかるように、1を掲げている米国の電気自動車(EV)大手テスラのような企業を中心としたグローバル資本主義企業と、2の立場を掲げるグレタ・トゥーンベリたちのFridays For FutureExtinction RebellionEnde Geländeといった各国の運動が対峙するようになっているということですね。もし1だけで十分に対応できるのであれば、なぜグレタが出てきたのかわからない。こういう対立軸で見たほうが、今の状況をより理解できる。日本にはグレタは存在しないので、1とさらにその手前のゼロみたいな「化石燃料を使おう」という、よくわからない人たちとの争いになっていますが、その話は今日は省略します。

経済成長と環境負荷のデカップリングではなく「脱成長」へ

この1のやり方、2のやり方は、どちらもメリット、デメリットがあって、1は既存の価値観に基づいて訴えるので普及しやすく、大きな資本が動く可能性もある。しかし裏を返せば、今のシステムに取り込まれて結局は骨抜き、グリーン・ウォッシュ(※注3)になってしまう。また、政治家、大企業などの既存の力を持っている人たちが変革を推し進めるのであれば、彼らに有利な形で不平等や格差が再生産されてしまう、そういうデメリットがある。それに対して2のようにラディカルな変革を求めるほうが、不平等や格差を徹底的に是正していけるし、本質的な変革になる。しかしデメリットとしては、既存の価値観そのものを変革していかなければならないので抵抗に遭いやすいし、当然、資本との衝突をはらむものになるわけです。

今年のダボス会議(世界経済フォーラム年次総会)のテーマに掲げられた「グレート・リセット」はまさに1の方向性をめざしていて、彼らは「脱成長をやめておこう」とはっきり言っている。私は2番の立場で「脱成長コミュニズム」を掲げているわけですけれど、「本当にデカップリング(※注4)が起きるのだろうか」という話は本に書きました。経済成長と環境負荷のデカップリング自体が起きないと言っているわけではなく、世界が目標としているデカップリングを2050年までに急激な形で起こすのはかなり難しいのではないか、ということです。そうした短期間でデカップリングを引き起こそうとすると、リチウム、ニッケル、コバルト、銅などの資源をめぐる争いが激化して、グローバル・サウスからの収奪を強めることになってしまう。あるいはバイオマスなどでも、途上国の土地収奪、農地収奪、つまりランドグラビングが激化していく可能性がかなり高いということで、こうしたやり方は何のためのグリーン・ニューディールなのか、ということを問わざるを得ない。逆にいうと、先進国が積極的に脱成長の道を選ぶことができれば、このような帝国主義的な路線にブレーキをかけることができるわけです。

それでもグリーン・ニューディール的なものが魅力的に聞こえるとすれば、それは私たちの既存の価値観にあらかじめ迎合しているからです。しかし、ここでこそ自分たちのそもそもの生活のあり方を考えなくてはいけないと思います。それは単に途上国に対してだけではなく、国内においても長時間労働であったり、労働者の鬱(うつ)の問題であったり、ジェンダー格差であったり、さまざまなローンの問題であったりというような、いろいろな形の抑圧や差別を生んでいる。そうしたことを考えれば、単に財政出動をして、環境負荷を下げながら経済成長をしていけばいいんだという道は、あまりにも一面的にしか物事をとらえていないんじゃないかということを私は問題視しています。

3.5%の運動から脱経済成長型社会への移行をめざしていく

私がめざしているのは本の最後に書いたように、まずは3.5%の運動(※注5)をつくることです。3.5%の人々の運動がなぜ重要かというと、社会を変えるためには選挙で勝つのではなく、選挙で勝つことの前提として3.5%のような運動が出てきて、社会の価値観が保守化していくことに大きな抵抗をし、価値観そのものを揺るがしていく。それをやらない限りは、現在の選挙の枠組みで野党共闘なんかをやったとしても、じゃあ今回野党は負けたから、躍進した日本維新の会に投票した人たちが支持するような政策を取り入れていこうとなっていくだけなので、そうすると社会の対立軸そのものがどんどん保守化していってしまう。それを変えていく唯一の方法は、ニューヨークのウォール街占拠(オキュパイ)運動であったり、グレタ・トゥーンベリたちの運動のような、社会における規範や考えそのものを揺るがす運動をつくるしかないということです。

10/8/11 “Slavoj Zizek visits the Occupation”.
by Brennan Cavanaugh CC BY-NC 2.0

その際にめざすべきひとつのヒントとなるのは、「豊かさとは何か」ということですけれど、それを私は「ラディカルな潤沢さ」と言っています。いまだに本を読まないで「脱成長は貧しくなることだ」と誤解している人たちがいて辟易としますが、私が言っているのは、みんなで我慢しようという話ではなく、今ある富をよりシェアしていく。ありとあらゆるものをシェアしろと言っているわけではもちろんなくて、いらないものを削減しつつ、同時に必要なものは限りなくシェアしていくような社会をつくっていくことができれば、多くの人たちにとってはむしろ生活は安定していくし、豊かになっていく。その際の「豊かさ」というのは、ひたすら働いて週末にショッピングモールや旅行に行くということではなく、たとえば労働時間を週休3日制にしたり、社会全体の活動を消費主義的ではないような形に、税金なども使って誘導していく。それができれば、より平等な社会が実現すると同時に、二酸化炭素の排出量も自然と減っていき、持続可能な社会になっていく。そういう方向性を探求していくべきではないか、ということを言いたかったわけです。

したがって本のキーワードは、SDGsは「大衆のアヘン」であり、脱経済成長型の社会に移行する必要がある。「緑の経済成長」も実現は難しいだろう、と。その上で、経済成長ではなく「ラディカルな潤沢さ」をめざす3.5%の運動をつくっていくべきではないか。『人新世の「資本論」』の主張をまとめると、そういうことになりますでしょうか。とりあえず以上です。

※注1)政治・経済・科学技術などの横断的な変化を伴う社会体制そのものの変革。

※注2)気候変動対策や環境保護に対する財政出動によって雇用の確保もめざす経済刺激策。

※注3)環境に配慮したイメージを消費者に訴求するが実態の伴わない商品・サービス。

※注4)経済成長を維持しつつ、エネルギー消費はそれとはデカップリング(=分離)して抑制することが可能であるとする仮説。

※注5)ハーバード大学の政治学者エリカ・チェノウシュらが『Why Civil Resistance Works: The Strategic Logic of Nonviolent Conflict』で提出した「人口の3.5%の人間が非暴力的抵抗に真剣に参与すれば政治体制は変革できる」とする分析。
 


 

講演2:古沢広祐(ふるさわ・こうゆう、元國學院大學経済学部教授)
「ポスト資本主義・システムチェンジは可能か?」

古沢広祐(ふるさわ こうゆう)/元國學院大學経済学部教授

NPO「環境・持続社会」研究センター代表理事ほか、環境・開発関係の市民・NGO団体の役員を務める。國學院大學経済学部を定年退職、同研究開発推進機構客員教授。著書に、『食・農・環境とSDGs~持続可能な社会のトータルビジョン』農文協(2020)、『エシカルに暮らすための12条』週刊金曜日・連載コラム(kindle電子版、2019)、『みんな幸せってどんな世界』ほんの木(2018)、『地球文明ビジョン~環境が語る脱成長社会』NHKブックス(1995)など。

 

環境破壊や社会問題を生み出す資本主義の矛盾とは

本日はいろいろな論点があって、斎藤さんはラディカルに問題提起をされています。私の立場としては、タイトルに出ていますけれど「ポスト資本主義・システムチェンジは可能か?」ということがひとつの議論、論点になると思います。

資本主義をどういうふうに見るかということですが、その前提として具体的な社会問題、環境問題など、さまざまな問題が噴出しています。今回はアクト・ビヨンド・トラスト(abt)の「公正で持続可能な社会づくりのこれからを考える連続企画」の第4回ということになりますが、さまざまな社会問題、環境問題をどのように克服するのか、具体的な議論がこれまでに3回あったわけですね。じゃあ、なぜそういった問題が起きているのか、根本的なところに楔(くさび)を打ち込もうということで、今日は4回目になります。ただ、これはなかなか困難なテーマでして、どこまで議論できるかは難しいのですが、そこにきちんと目を向けようというのが今日の対話です。

まず3つの疑問を提示します。ひとつは、これだけ科学技術や経済が発展しているのに、何で私たちはもっと豊かに、幸せになれないのか? これは昔から言われていることで、そもそもおかしいじゃないか、と。まずは成長が必要なのだ、発展が必要なのだと言うけれど、問題が解決できていないのに、何でさらなる成長、発展なのか? これは根本的な疑問ですね。そして、その見せかけの豊かさや幸せの裏には環境破壊や貧富の格差が生まれてしまう。その原因には、そもそも資本主義の矛盾があるのではないか? ここにメスを入れないといけないんじゃないかということは、斎藤さんが声を大きくして言っています。

私は、斎藤さんと問題意識や方向性は共有していますが、視点やポジションの違いからいうと、SDGsを簡単にむげに切り捨ててしまっていいのかと考えています。そういうふうに言ったほうが内容に対しての明確な問いかけになるわけですけれども、SDGsというものはもう少し使いようがありますよ、という点を強調したい。ここがひとつの論点ですね。

あともうひとつは、斎藤さんは「本格的な転換をしないと間に合わないし、だめですよ」と言っていて、そのときに「脱成長コミュニズム」という重要なキーワードを出されている。その中で「脱成長コミュニズム」をどういうふうに3.5%の運動で展開するのか、「脱成長コミュニズム」というビジョンは、具体的に何なのか、それが解決の道にどうつながるのか、ということも今日の議論のテーマですね。SDGsの見方の問題と、「脱成長コミュニズム」の展望・ビジョンについて、このあたりを議論できればと思います。

自己紹介はざっとですが、私は1970年代、80年代、90年代と、公害・環境問題、市民運動、有機農業、地域とグローバルな運動など、いろいろな活動に関わりながら、とくに脱成長の問題を含めて議論もしてきました。しかし残念ながら、なかなか問題の突破口が見つからないまま今まできている。今日は、気鋭の若手研究者の斎藤さんから「ちゃんとしろ」と声をかけていただいたと受けとめています。以前からそれなりに長い歴史の中で問われてきたことについて、いま改めて問われている根源的な問題への、私なりの見方を示したいということです。

格差の拡大を是正するための新たなアプローチが始まった

日本では、今年は岸田政権が発足して、当初は「新しい資本主義」とか「新自由主義を見直す」と言っていたけれど、実際に蓋を開けてみたら全然、という感じです[資料p.3]。世界では、ダボス会議で主要な経済の重鎮たちが集まって、そこでも従来の株主資本主義というものは「終わった」ということで、ステークホルダー資本主義、つまり「格差是正や環境問題の解決に貢献し、より長期的な成長をめざす」としています。もうひとつの問題は、従来の社会主義が変質して、中国などではいわゆる権威体制の国家資本主義が構築されている[資料p.4]。資本主義そのものも、また社会主義でも実は問題を抱えているというところで、斎藤さんが提起されている「脱成長コミュニズム」はどういうことになるのか、このへんからの議論に入っていければと思います。

重要な問題のひとつは格差の拡大です。これは前々から言われていて、どんどん格差が広がっています。最も裕福な1%の人たちが大半の富を所有している。これもたくさんいろいろなレポートがありますけれど、このあたりの問題に関しては従来の労働運動、労働組合などが弱体化して、富の蓄積が極端に歪んでしまっている。このことに対して、きちんと声を上げるということがなかなか出来ていない。ダボス会議に向けては、国際NGOのOxfamという組織が世界の貧困や格差について調査報告を出して、問題を提起しています[資料p.5-7]。

現在のグローバル資本主義においては、国ではなく、いわゆる巨大企業が経済の主流を占めています。国家の歳入と巨大企業の売上高の比較をみると、10年前は世界の国家の経済規模に対する多国籍巨大企業の経済規模は半分以下だった。ところが今は企業が7割を占めている。つまり経済活動の主流は企業であり、まさに巨大資本が世界を動かしているという現実を象徴しているわけです[資料p.8]。

ですから、『人新世の「資本論」』にも書かれていますけれど、資本というものの持っている問題や矛盾にどうメスを入れるか。これは近年、経済学者のトマ・ピケティさんから始まって、いろいろな書物や言説が出てきています。結局、誰が豊かになっているのか、成長や発展の内実の分析がこの間どんどん出てきて、まさにびっくりするような格差が広がっているということです[資料p.9-11]。ここにメスを入れなければいけないということが言われ出して、さまざまなアプローチが模索されています。ピケティたちのグループは、グローバルな不平等の状況をウェブサイトで公開しています。そしてグローバルな税制のジャスティス、正義を訴えています。再分配、分配の構造を変えていこうという動きもあって、そうした活動のレポートもいろいろと出ています[資料p.12]。

それらの動きを構造転換と見るのか、単なる改良や手直しと見るのか。実際には再分配政策は難しいのですが、喫緊の課題ではタックス・ヘイブンという租税の回避への対策とか、デジタル課税とか、法人税率の改定とか、さまざまな対策を講じようとしています[資料p.13-14]。ただ、これらの対策が動き出すのは1、2年先ですから、端緒は出てきたけれど「遅すぎる、間に合わない」という見方もあります。私は、資本主義経済をコントロールしていく動きがようやく始まりかけているということで、この動きはぜひ押さえたい。そこは強調したいと思います。

変化する資本主義の構造をとらえて軌道修正をはかる

資本主義に対する批判や改善への動きは出てきましたが、今われわれは資本主義そのものの姿がきちんと見えていない。格差の問題もそうですけれど、やっと部分的に光が当たってきた。特に重要なのは、資本主義の姿がマルクスの言う産業資本主義の矛盾段階よりも、今は金融を含めた巨大な資本主義の構造自体が変化してきている。そこにはバブルの問題、あるいは格差の問題などがありますが、より根本的な問題に対して、どういうふうに変革をもたらすのか。ここが今、主戦場になってきているという流れです[資料p.15]。

しかし、この問題のとらえ方はなかなか見えにくいというか、資本という言葉自体もわかりにくいですね。資本主義批判を展開しているグループはいろいろありますけど、私が注目しているのはデヴィッド・ハーヴェイという経済地理学者です。『資本の〈謎〉世界金融恐慌と21世紀資本主義』という著書では、単に個別の資本というより、資本総体が巨大な力として動いている、その姿をちゃんととらえようという視点が述べられています[資料p.16]。ですから、個別の企業活動と、その企業活動を動かしている総体としての資本の集積、これはグローバル世界都市の形成まで動かしている、そういった有機体とでもいうべき巨大な資本のダイナミズム、その全体像を把握する視点こそが重要だということになると思います。もっと具体的な例でいえば、中国が巨大な発展をしましたけれど、その発展のメカニズムには、資本の集積と拡大のメカニズムがあるわけですね。そうした資本の姿がまだきちんととらえきれていない。あるいはそのような資本の動態に、国家や国際制度がどういうふうに関与すべきか、コントロールができるか、大情況的にはここが大きなテーマだと考えています。

ただ、そこに一気に行く前に、従来の資本主義、社会主義経済、国家主義などに対して今、公益資本主義、ステークホルダー資本主義といった新しいシステムが出てきている[資料p.17]。そのプロセスの中で、資本の拡大再生産や増殖のメカニズムに対する調整、修正主義といえば修正主義ですけれど、いろいろな動きが生まれてきている。私は、目の前の課題としてそこにどうやって軌道修正の手がかり、足がかりが築けるか、きちんと楔を打っていくかが大事だと考えています。そのときにSDGsというのは手がかりとして重要であり、アヘンのようなまやかしの部分もある反面、毒の部分とともに薬の部分もあるということで、問題提起をしたいと思います。

環境・人権を重視する方向へ舵は切られている

図は「現代資本主義と新自由主義をどう見るか?」ということで、「時代の動向分析(諸レジームのダイナミズム)」を示しています[資料p.18]。時代の動向において、グローバルな資本主義が世界を押さえ込んできているわけですが、もう一方で環境、平和、人権、福祉をめぐって新しいレジーム(制度的枠組み)が出てきて、いろいろな新しい制度形成と枠組みをめぐるせめぎ合いが起きている。なかなか簡単にはいきませんが、そうしたレジームのダイナミズムをきちんと見ながら、資本主義のひとつの仕組みに対するオルタナティブが見えてこないのかということが、私が注目しているところです。たとえば「持続可能」というのも、まやかしの言葉といってしまえばひと言で済みますけれど、その中に新たな展開の道筋というか、光を見ていこうということです[資料p.19]。

この中で経済システムを変えていく、あるいは企業が何とかしないといけないと思い始めていること自体が、私は重要だと思っています。今はそのためのいろいろな仕組みがつくられ、いろいろな楔が入り始めている。それは資本主義そのものの修正・改革として、グリーン・コンシューマリズム(環境を重視する消費)から始まり、消費者の意識のあり方も環境やエシカルなことを重視し始めている。そこは、たんに意識だけの話ではなく、それが企業そのものをどう変えていくかという市民運動や社会運動の歴史的に長いせめぎ合いがあって、まさに資本主義の根幹にどう迫るかという話になります。その他にも、最近はやりのESG投資(※注1)など、いろいろなことが言われてきている。その裏には、SDGsの舞台裏の中のせめぎ合い、国連の中にもせめぎ合いがあって、多国籍企業規制の動きが何度も潰されかけてきました。しかし2008年のリーマンショック(世界金融危機)以降、投資の規範を組み立て直さなければいけないという流れができて、「国連責任投資原則(PRI)」といった原則も重要視されるなど、いろいろな新しい動きが出ています[資料p.20-21]。

マーケティングの分野でもそういう動きが起きていて、これも見方によってはまやかしだという言い方もあるけれど、今までは株主だけを見ていたものが、社会的責任ということを意識する、あるいは社会に貢献することが重視されだした。企業は、そうした視点が強化される動きの中で対応せざるを得ない、これをどう見るかということですね[資料p.22]。

そのための国際的な制度の枠組みが長年の人類の歴史の中で積み上げられ(レジーム形成)、外枠が固められてきました。残念ながら、これは気候変動対策もそうですけれど、ハードにきちんと組み立てることはなかなか難しく、外からジワジワと攻めて方向転換をめざすようなソフトな仕組みをだんだん固めてきている。そのひとつの集大成にSDGsという流れがあると私は見ています[資料p.23]。

ただ、それがどれだけ力を持っているかというと、はっきりいって心もとないのは確かです。とくにまだ財政的な基盤がないわけですし、グリーン・ディールやグリーン・リカバリー政策ではかなり資本が動いているけれど、その財源はどうするのか課題山積です。たとえばタックス・ヘイブンとか、そういったものの中で構造調整をしていく[資料p.24]。そして直近の問題だけでなく、もっと先を見て、脱成長のビジョンをどう見るかということも、もうひとつの大事なテーマですが、何とかそこにもつなげていけないかなというのが私のポジションです[資料p.25]。

実際に、「それではうまくいかないんじゃないか」という批判も斎藤さんが述べていることですね。しかし、少なくとも新しい動きは出てきていて、そういう方向性に舵が切られている。もっといえば、これも評価が分かれますが、「2050年カーボンニュートラル」によって成長経済が完全に縮小もしくは行動調整される流れが生まれた。それによって企業だけでなく、私たち自身も生活を組み替えていくという覚悟が迫られている。これも重要な大きなテーマになります。その実現のためのせめぎ合いは、これまでずっとあって、この過程にもいろいろ困難なプロセスがありましたけれど、そういう方向性を生み出してきたことも確かな歩みです[資料p.26-27]。

社会的連帯経済によって資本を市民化・民主化する

ここからもっと先に行くには、斎藤さんがおっしゃっている「脱成長コミュニズム」という方向性がひとつあり得ます[資料p.28-29]。しかし、そこはいくつかのステップが必要です。根本的に質的な中身がどう変えられるか、というところが実はなかなか難しい。私なりに「脱成長コミュニズム」を解釈すると、構造的な転換において、従来の公的なメカニズムと私企業との対立構造の中に、もうひとつの領域として市民社会や地域共同体といった共的なメカニズムの拡大があって、ここが重要であると思います[資料p.31]。これは斎藤さんとも重なる部分ではないかと思いますが、「公」と「私」と「共」の領域、この3つの関係をどう見るか。見方によってかなり違うし、どうバランスを組み立てるかということがあります。

最終的には、経済成長に依存しなくても成り立つような社会の姿を構想、構築していくということです。それをひと言で「脱成長コミュニズム」と言うよりも、もうひとつ手前に私たちの身近な生活の基盤において、市場経済や商品経済だけではない関係性の構築、「コミューン領域」とでも言うべき自律的・協同的な領域を見直していくということかと思います。そして、そこの領域での豊かさを広げていくという、そのあたりが私が考える「脱成長コミュニズム」の内側からの展開プロセスです。それを実現するためには、外からの枠組みの規制や制度設計、制度展開とどういうふうに組み合わせるかということが鍵ではないかと思います。

そのような新しい動きの中に、斎藤さんも重要視されているNGO・NPO、協同組合、労働組合といった社会的連帯経済、協同組合的な展開、ここは課題も多いのですけれど、もうひとつの発展と展開が対抗的な動きとして期待されている[資料p.32]。日本の中ではまだまだですが、世界的にはそういう動きが広がってきている[資料p.33]。ただ、そうはいうものの、現代資本主義にはもっと巨大な力が厳然としてあり、GAFAとかビッグ9といわれる巨大ハイテク企業が君臨しています。デジタル資本主義経済において、どこが覇権的に牛耳るかということもあって、市民の側が完全に対抗するには難しいところです。ですが、何とかそれに対する下からの動きも始まってきている[資料p.34-36]。日本の中でも昨年やっと労働者協同組合法が成立しました。世界の流れではもっと、デジタル・プラットフォーマーに対する規制の組み立て直しや、アプリを開発・運営するプラットフォーム協同組合などもできて、まだ小さいのですが動いています[資料p.37]。

従来の古典的な資本主義の問題の解決というのは、どれだけ分配するかという話が中心になっていました。しかし、今はピケティが言っているように、モノやサービスの取引としての実態経済よりも、金融資本をベースに経済を動かしているマネー資本主義が土台をなしていて、そこで上がる投資収益という金融所得がすべてを動かしている。ここにどういうふうにメスを入れるのかということが課題です。

実際には、経済・政治体制的にはアメリカ的な能力資本主義、中国的な国家資本主義としての権威資本主義があり、現在進行形のデジタル経済はまさに監視資本主義に乗っ取られてきているという警鐘が鳴らされています(ショシャナ・ズボフ『監視資本主義』)その中で、資本というものをどのように市民化するのか、民主化するのか、ここが大きな課題であり戦略が必要になってきています[資料p.38]。ということで、システムチェンジの可能性はありますが、一方では困難さは増している状況です。ここではあまり触れませんでしたが、巨大都市集中から地方分散への動きなど、コロナ危機を含めて、新しい可能性が生まれているのではないか、ということも付け加えたい点です[資料p.39]。とりあえず斎藤さんと私の共通する部分と違う部分をざっとお話ししました。

※注1)環境(Environment)・社会(Social)・ガバナンス(Governance)を評価・考慮して行う投資。
 


 

ディスカッション

ここからは斎藤さん、古沢さんのお二人と、abt代表理事の星川淳、理事の李妍焱(リ・ヤンヤン)、安部竜一郎が加わり、視聴参加者の方からチャット欄に寄せられた質問やご意見も取り上げながらディスカッションを進めていきました。

李:最初に、斎藤さんと古沢さんのお互いのお話に対して、コメントをお願いします。まず斎藤さんにお話しいただきたいのですが、古沢さんがおっしゃったSDGsの見方に関して斎藤さんはどう見るのか。そして、今後めざすべきビジョンについて、お二人は共通の方向に向かっていながらも、具体的なビジョン像には違いも見えてきました。斎藤さんから、古沢さんにコメントをいただければと思います。

斎藤:端的にいってしまえば、危機に対して今のペースでは全然間に合わないので、対策をしたところで改善にならないということですね。私たちはもっとドラスティックに物事を変えなくてはいけない、そこをスタート地点としなくてはいけないと強く考えています。こうした発想がこの間ずっと危機感を持ってとらえられてきたことの背景には、冷戦終結後、ドラスティックなシステムチェンジはもう不可能であるという根強い考え方がある。これをマーク・フィッシャーという人は「資本主義リアリズム」と呼んでいますけれど、今のシステム、資本主義システムを変えることはできないんだという議論は、特に上の世代の人たちと話していると感じます。

ところが、若い世代からいうと、そのような悠長な議論につきあっている余裕はない。実際、コロナ禍で明らかになったのは、本気を出せばドラスティックなチェンジは十分に可能だということです。これは現金一律給付もそうですし、ワクチン接種やロックダウンもそうですが、「そんなことはやってはいけない、到底できるはずはない」などと言われていたことができたわけですね。当然さまざまな混乱を生んだし、混乱は避けられるものではなかったわけですけれど、そうした混乱も含めて、いずれにせよ「やらなければいけないんだ」となれば、社会全体で取り組むことができるし、国家は市場に介入することができたし、人々の生活を守るために財政出動もできたということです。

では、なぜ気候変動に対して同じことをやらないのかといえば、同じような危機感を私たちが気候変動問題に対して持っていないからにすぎない。しかし、少なくとも気候変動の問題に興味があるなら、私たちはIPCC(気候変動に関する政府間パネル)のレポートも読んで、コロナ禍以上の危機がやって来ているということを認識しているわけです。ですから、当然求めるべきは、コロナ禍でやったようなことを気候変動の対策としてもっとやるべきじゃないか、なぜやらないのか、ということを訴えかけていく責任があるし、私はそういう形で社会の転換を求めていくべきではないかと考えています。『人新世の「資本論」』を出してから1年経ちますけど、コロナ禍を踏まえて、より強くそう思うようになっています。

李:斎藤さんが「それでは間に合わないのではないか」とおっしゃったことに関して、一方では持続可能な社会を求める長い歴史を踏まえて、ようやく巨大資本を変えていく、資本主義を内部から変えていく動きが出てきた。古沢さんは、そうした動きを活かしていこうという立場だと思いますけれど、どうお考えでしょうか。

古沢:おっしゃっていることは、わからないわけではありません。ラディカルな着地点まで一気に行くのは、可能性としては賭けていいかもしれません。ラディカルな着地点をもっと具体的に提示して、そこに向けてどんどんやっていくことも必要です。そういった提起は出さないといけないと思います。

ただ、気候変動問題におけるこれまでの過程は、1997年の京都議定書から始まって右往左往しながら、まさに交渉が決裂してしまうという大波を受けながらも、「2050年カーボンニュートラル」というターゲットを国際的な合意にまで導いてきている。この枠組みの中で「対策が間に合わない」ということはあるし、下手をしたら問題が起きるということも、もちろんあります。けれども、そのためにどうするかといういろいろな仕組みが今は動いていて、資本主義そのものの軌道修正をはかるためのさまざまな手練手管というか、企業の行動を縛る、環境省や経産省、財務省などを含めて企業の痛いところに楔を打っていくための仕組みをつくろうとしている。企業側からの猛反発がある中で一歩ずつやってきている。それを「間に合わない」と言ってしまうのもいいのですが、ここの努力なり、苦労なり、可能性というものを大事に育てていかないと危なっかしいと思います。

気候変動問題でも、これまで決裂の間際で踏みとどまって、何とか持ち直して、何とか押し上げてきたということがありますし、こうしたプロセスを外してしまうと逆の振り戻し、一気に後退、後戻りするかもしれない。世界ではそういう局面もあります。もっとはっきり言ってしまえば、良くも悪くも、下手をするとファシズム的な展開にまでいってしまう。ここの駆け引きなり微妙なところについては、どうなんでしょう。そんなふうには思いませんか?

李:斎藤さんがおっしゃる「ラディカルなシステムチェンジ」というのは、いかにいい方向に向かって道を切り開いていくことができるか、ということだと思います。チャットにも似たようなご意見が出ていましたが、古沢さんが述べていることは、市民セクターに慣れ親しんでいる人だったら実感がわいてくると思うんですね。市民運動や社会運動の歴史の中で、公共的セクターであったり、協同組合であったり、NGOやNPOであったり、社会的連帯経済であったり、そういうさまざまな具体的な活動であるとか、ネットワーク、人々の実践内容が頭に浮かんでくるところもあると思います。

斎藤さんがおっしゃっている3.5%の運動は、私自身、本を読ませていただいたときに市民セクターをイメージしました。斎藤さんは、その3.5%の人々の運動を挙げてまずは対立軸を明確にした。対立軸を明確にした上で、ラディカルに3.5%の運動で変えていこうということですが、本を出して1年経ち、ベストセラーになったことは日本社会の変化を物語っていると思います。この1年間で3.5%の運動について、斎藤さんは「これはいけるぞ」というような具体的な動きがイメージできて、実現していけそうな実感を持たれているのでしょうか。ラディカルに道を切り開いていけるというような、自信が感じられるような状況なのでしょうか。

斎藤:さっきのお話の繰り返しになりますけれど、この1年間、コロナ禍の中で私たちは「できない」と言われてきたことをさんざんやったわけですね。むしろ、これで変化を恐れて何もやらないことのほうが、より大きな破局をもたらすことは明らかなわけです。これまでにいろいろな努力があるのはわかっていますけれど、全然うまくいっていないわけで、うまくいっていなければプロ野球の監督だったらクビになる。

そもそもうまくいっていないことの大きな原因は、先進国が後ろ向きの対策しか取っていないからです。私は、二酸化炭素の排出量についてインドや中国だけが悪いとは思っていなくて、今年のCOP26でも石炭云々みたいな形で話をごまかしているのは先進国のほうです。先進国の側は、いつ化石燃料全般に対しての停止、シャットダウンをやるのかということに関しては曖昧にしたまま石炭火力発電という焦点をもってきて、それをインドや中国のせいにしているのは完全な争点ずらしだと思っています。

本来であれば、先進国がコロナ対策のロックダウンのような措置も含めて、もっと気候変動対策に動かなければいけない。石炭は当然として、それ以外の化石燃料も含めて、今後数十年でどう止めていくのかということをもっと真剣に考えていく必要がある。この1年間で大きい変化があったとすれば、そうした可能性があることに気づいた、私たちは今まで「できない」と思い込まされてきただけなんだということに気がついた、ということです。このポテンシャルを過小評価すると、将来歩むべき道を誤ってしまうと思います。

古沢:コロナ危機の中で、いろいろなところでSDGsが掲げた目標などが総崩れになりました。緊急事態に対して、たとえば現金給付もそうでしょうし、対応せざるを得ない。そのための財政出動も含めて、今までにないような規模の対策が行なわれてきている。これはやろうと思えばそういうことはできるんだという対応だと思います。

ここはとても重要で、その可能性をもっと拡大するとどうなるのか。よく議論があるようにベーシック・インカム(基礎的な所得の給付)などの動きもありますし、そういう動きをさらに展開していくような方向性もあり得るわけです。もっといえば、さまざまな格差是正の議論も、まさに第二次大戦のときには国家の経済規模を何倍も上回る巨大な借金を背負い込んで、戦後社会が復活された。財閥解体から土地所有の解体から、いろいろな抜本的な仕組みの変革によって軌道を持ち直して、それなりに資本主義が再構築、再形成されるというプロセスがあった。そういう意味でいうと、ピンチの中でこそ根本的な変革に突き進めるというか、そういう面があります。しかし、なかなか問題は一筋縄ではいかず、先にファシズムへの傾斜の危惧にふれましたが、ここは慎重さも必要です。今回のコロナ危機の対応もそうですし、気候変動対応もそうなんですけど、抜本的な変革が必要でそのチャンスであることは確かです。けれど、だからこそここは、問題構造や諸勢力のせめぎ合い状況への慎重な分析と戦略を考えながら、短期的、中期的、長期的な道筋をいくつか考えておくべきではなかと思います。

安部:ここで私からここまでのお二人のお話に関連して質問をさせていただきたいのですが、システムを変えていく、変革をしなくてはいけないということはお二人とも一致しているかと思います。それでは変革の主体をどう構成していくのか。チャットの質問にも出てきましたけれど、トップダウンでいくのかボトムアップでいくのか。古沢さんの場合はどちらかというとボトムアップのイメージ、斎藤さんの場合は両方混ざっているのかなという印象なんですけれど、そこをお二人にクリアにしていただけると論点が明らかになるかと思います。

李:斎藤さん、いかがでしょう。

斎藤:基本的には、トップダウンも必要ということですね。ボトムアップも必要だし、当たり前の話として、トップダウンもボトムアップも必要です。トップダウン的な措置が求められるからこそ、ボトムアップの力がなければ単なる独裁みたいになってしまうので、ボトムアップも必要です。ただ、ボトムアップだけでは到底間に合わないような危機に私たちは直面している。そこが前提だと思っています。

古沢:その関連でいうと、そのときに今の現代社会を動かしている国家の経済規模を上回る巨大資本というか企業体を、どうします? 潰しますか? 私は、今の巨大企業を含めて、幻想かもしれないけれど、内部改革や構造改革という点は重要だと考えます。しかし、そういう質的な転換は自然には起きない、いろいろな仕掛けをつくらないとできないので、どういう仕掛けをつくるのかというところが知恵の出しどころ、勝負のポイントではないかと思っています。それも一つや二つの答えではなくて、いろいろな仕掛けを組み合わせで考えないといけない。一方では、より先駆的・先進的に、社会的連帯経済のように先陣を切って開拓していく流れとともに、既存の企業体そのものも構造改革に巻き込んでいく。斎藤さんは、「そんなの間に合わないよ」と言うかもしれないけれど、私はそこをちゃんとやっていかないと破綻すると思います。

李:ここから後半のディスカッションの進行は、星川さんにバトンタッチしたいと思います。その前に私からひとつだけ。トップダウンとボトムアップ、両方大事だと思うのですが、トップダウンについて考えるときに、中国が今、強力に進めている「共同富裕」という政策があります。まさにトップダウンで格差を一気に是正しようとしている。トップダウンというと、どういう形のトップダウンをイメージすればいいのか。

また、ボトムアップに関しては、斎藤さんのお話の中でおっしゃっていた対立している1の立場(既存システムの内側で、現実的な変え方をしていく、という立場)ですね、SDGsも含めて、既存のシステムの中で何とか変革していこうという立場の人たちがいます。じゃあ、そのようなソーシャル・イノベーションを唱えている人たち、グリーン・エコノミーの活動をしてきた人たち、ESG投資をがんばっている人たち、その人たちをどういうふうに仲間に入れていくのか。どうやって「脱成長コミュニズム」というビジョンにおいて、1の立場と2の立場の人たちの共通点を見出して共有していけるのか。それとも、対立したままにするのかということを、後半のディスカッションの中で取り上げていただければと思います。それでは星川さん、お願いします。

星川:斎藤さん、今の李さんのコメントに対して何かありますか。

斎藤:そうですね、今の企業に対して課税をするとか、ちょっとした規制をかけて、いい感じにもっていこうというのと、全部国有化してトランジションをしようというのは、私はどちらも同じくらいユートピアだと思っているんですね。なので、どちらがより現実的かというのは、実質的には言えないなという気がしています。

たとえばトヨタ自動車を協同組合的に運営していくのも不可能なので、トヨタ的な企業に対しては国が何らかの規制をかけざるを得ないと思います。それはたとえばガソリン車の販売を2030年までに禁止するとか、そういう規制をかけていかざるを得ないということです。これはアパレル業界に対しても同じく、ファスト・ファッションに対する規制をかけていかざるを得ない。彼らに「もっとエシカルなものをつくりなさい」と命令できればいいのですが、実質的に命令をしないような形で、消費者からの働きかけか何かを待って、トランジションが自動的に起こることを望むことと、私が言っているような脱成長という観点から抜本的な規制を企業にかけるのは、同じくらいユートピア的だということですね。同じくらいユートピア的であるのであれば、後者のほうがいいのではないか。あえて対立をクリアにすれば、そういう感じになるのかなと思います。

ただ、それを放っておくと、おっしゃっているような「共同富裕」みたいな形にスライドしていってしまうので、そこは当然難しい。つまり私たちは極めて難しいところに立っていて、市場の自由を優先するがゆえに地球環境を破壊するというリスクをとるか、地球環境を守るために民主主義そのものをリスクにさらす危険性をとるか。それくらい、どの道を行くにしても、相当危険性が伴うのだということを、議論の前提としてもっとクリアに出すべきです。あたかも調和的に「みんなががんばればうまくいきますよ」みたいな言説は、私はこの状況においては欺瞞だと思っています。

星川:非常に狭い道であるという認識は大切だと思います。進行のバトンタッチのついでにひとつ論点を投げ込むと、李妍焱さんが事前に「こういうことを聞きたい」と言っていたことのひとつに、「斎藤さんの本がなぜこんなに読まれるのか」ということがあります。僕は来年70歳になりますが、それくらいの世代から見ると何となくわかるんですね。要するに「かつての夢よ、もう一度」じゃないけれど、僕たちがやり残したことを斎藤さんが刺激してくれる。その証拠に、今回の視聴申込者は400人近かったんですけれど、60代以上が半数近く、50代以上で数えると7割くらい。そこには世代の偏りがあって、本当は若い人たちにこうした議論も活動もつなぎたいわけです。

論点を投げ込みたかったというのは、いずれにしても広い市民側の声というか、幅広い世代の人たちがちゃんと文句を言って「こうしようよ」という声が大きくならないと3.5%の運動も発動しない。そこをどうするかだと思うんですね。その意味で、団塊世代と若者がどう共闘していくかということが、これからの大きな課題じゃないかと僕は見ています。古沢さんも斎藤さんも、それぞれ現場でいろいろな年代の人とやりとりをし、議論をして、行動もしていると思うので、そのへんの実感を教えていただけますか。僕から言うと、団塊世代の「かつての夢よ、もう一度」だけではなく、僕たちはこういう社会にしてしまった責任があるんだから「何とかしなきゃいけない、このままでは死ねないよ」ということもあると思うのだけれど、古沢さんはどうでしょうか。

古沢:ジェネレーションZといわれている世代の国際調査の比較をみると、「よりよい社会に変えていくために行動したいですか」とか「自分で国や社会を変えられると思いますか」といった質問に、日本の若者の回答はほとんど諦めというか、政治にも期待していないし、社会を変えるということに対しても期待していない。だけど、海外の場合には、半数くらいのレベルの若者が社会を変えていくことに対しての期待があって、ポテンシャルのベースが違っているんですね。これは何なのかなというのが気になっています。

日本の若者の場合も、時代の流れの中で、かつてはいろいろな社会運動や抵抗運動がありました。しかし、言い方は悪いかもしれないけれど、日本の場合はまだぬるま湯状態が続いているのではないかなと思います。何とか生きていける。実際には見えにくいところでどんどん崩れているのですが、そこの危機感があるかないかが大きな違いかなと。海外では、ジェネレーションZの世代の中にも、このままじゃだめだと、変革しないといけないんだということで、ジェネレーション・レフトという新しい世代が育っている。日本では社会の崩れ方が見えにくくなっていて、ただ、どこかで反転はあるんじゃないかという気がします。

たとえば、日本では海外のジェネレーション・レフトよりもう少しソフトな形で、脱都市化へ向けての動きとか、従来とは違ういろいろな別の豊かさを求める動きが始まっている。大都会で働いてエリートになって、というような価値観とは別の価値観が生まれている。だけど、それが政治変革や社会変革の大きな波には、まだ乗り切れていない。海外の場合は社会の中に危機が現出しているのに対して、日本ではまだぬるま湯に浸かっていられる。ここをどういうふうに見るかということですけれど、どこかで変わっていく契機があるんじゃないかという気はしています。

斎藤:古沢さんがおっしゃっている若者の意識調査の結果は、私も本当に深刻だと思っています。若い世代は、さまざまな問題の影響をこれからもっと受けることになるにもかかわらず、海外のZ世代のような取り組みが日本では始まっていない。逆に、選挙の出口調査では多数の若者が自民党に投票していると言われている。私が学生と接していて思うのは、彼らは非常に忙しいですよね。仕送りが少なくてバイトもしなくてはいけないし、就活とかそういうことに時間を割かなくてはいけなくなるなかで、勉強して自分なりに問題意識を高めて、それをどこか現場に行って広げたり深めたりする仲間に出会うという体験が希薄だということです。

もうひとつは日本の社会自体が、労働運動でも環境運動でもそうですけれど、運動が立ち上がって社会を変えていくということを上の世代は結局は達成できなかった。この10年間を見ても、福島第一原発事故の後、運動は少し盛り上がったけれど、原発を私たちは完全に止めることができなかった。そうしたことも含めて、反省、敗北があるなかで、じゃあ今の若い子たちが「自分たちが声を上げたら原発を止めて気候変動を止められる」と思うかというと、なかなかそうならないだろうし、たぶん上の世代の人たちも同じだと思うんですね。原発を止められなかったのに、まして気候変動なんか止められるわけがない。そういう無力感を私は何とか変えていきたいし、それは強い思いですね。

ただ、運動というものはすぐにはつくれないし、運動はつくろうと思ってつくれるものではない。今日ここに参加しているみなさんも、チャットのコメントの中でどういうことをしたらいいのかという悩みは出てくるし、こうすればいいという答えがあれば、私もそれをいろいろなところで言って、みんなでやっていると思う。ただ、私の場合は、本を書くことで、もっと大胆な変革の道があるのではないかと提起することは、少なくとも『人新世の「資本論」』ではできたかなと思っています。もちろん提起だけでは何も変わらないので、ここからどういうふうにコモン(共有財・公共財)をつくっていくような実践を広げていくことができるのかということが、ネクストステップとして重要だなということは強く感じています。

李:チャット欄に「若者が脱成長について勉強したり実践したりするような団体はあるのでしょうか? あればぜひ参加したい」という質問が上っています。お二人に、アドバイスいただければと思いますがどうでしょう。

斎藤:Fridays For Future Japanの子たちはかなり脱成長の言説に親和的ですね。日本で気候変動の問題に関心のある若い人たちは『人新世の「資本論」』を読んでくれていて、この間も仙台に行ってFridays For Future Sendaiの大学生や高校生と一緒に学校ストライキをやりました。一部の若者は強い危機感を持って学校ストライキを日本でもやろうとしているし、COP26にも日本人の高校生が行っていて、そういうアクションを起こす若い人たちが出てきているのはひとつの希望ですけれど、それでも人数はまだ少ないのが心配でもあります。

星川:古沢さんは、若い世代の運動の具体例というのは何かありますか。

古沢:気候変動は目の前で起きているし、世界的に動いているのでだんだん広がっていく可能性は期待したいですね。気候変動だけではなく、環境問題では生物多様性の問題などもあって、そこでも若い人たちのグループが活動をしたり、国際的な場に行って対話をしたりしている。そういう世代は育っていると思います。ただ、全体的な割合からいうと、なかなか3.5%までにはいかない。

私が今、注目しているのは、NPOやNGOの動きとともに、ソーシャル・ベンチャー、ソーシャル・ビジネスの動きです。震災後のボランティアもそうですけれど、NGO、NPOのいろいろな支援活動が現状打破のひとつの手がかりとして動いてきた。その流れの中で、若い世代を含めて、社会問題に対して何かしようという動きが出てきている。その波の中に、各地で社会課題に取り組む事業への関心が高まっており、ビジネスや新しいライフスタイルとして取り組むソーシャル・ベンチャー的な動きが日本でも展開してきている。星川さんも、早い時期から屋久島に移り住んで活動されていましたね。たしか屋久島にも若い人がどんどん入ってきていますね。だから、潜在的な可能性はある。あとは私は定年退職後に研究会や勉強会もやってはいるのですが、残念ながら、こちらは関心からいうとオールド世代が多い。

李:Z世代を含む若者たちに今、いろいろなことが期待されていて、「あなたたちが何とかしなければならないよ」という声がある一方で、若者を使い捨てにしたり、大事にしていないのが日本社会の現実です。そこは注目すべきところではないかと思います。

それと、チャットには、宇沢弘文さんが提唱した「『社会的共通資本』からそんなに進んでいないんじゃないか」というご意見もありました。時間があればお話しいただければと思いますが。

星川:今のお話と関係するのですが、僕から見て、若い人たちがなかなか力を出せない、希望を持てないひとつの理由は、日本ではこうやって変えていくことができるんだという実感というか、実例が少ないと思うんですね。こういう議論の中で、無視されている、軽視されていると僕が思うのは、70年代、80年代以降の第1波の脱成長の動きの中で、たくさんの人が脱都会とか帰農的な暮らしをしたり、無農薬の八百屋さんを始めたりしている。実際に暮らしごと、体ごと、そういうことをつくり出すムーブメントが日本でも強力にあって、3・11後は若い人たちの間でも第2波、第3波が起きている。ところが、日本ではそれがまったくないもののように扱われ、学問的にも議論されていない。一方、欧米など世界ではグリーン・ポリティクスの中で、暮らしを変えるということと政治的なラディカリズムは一体的にこの間進められてきた。

2015/7/16 SEALDsが呼びかけた安保法制強行採決への国会前抗議
(abtスタッフ撮影)

僕から見ると、やってみていることの価値はものすごく大きくて、なぜならそれは生半可なことじゃない、そこに経験知が蓄積されているんですね。日本のいろいろな地方で、どうやって暮らしを紡いでいくかということを古い世代から受け継いで、しかも新しい感覚もその中に取り込んで展開するというのは本当はすごいことなんです。それが「気候危機はもう時間がないんだから早く進めなくては」というところに活かされればいいと思っているのだけれど、そのあたりはどうですか?斎藤さんは、若い人たちで、地方に入っている人たちにも接触はあるでしょうけれど。

斎藤:70年代、80年代より前の公害運動から生まれてきたような運動も含めて、一回途絶えちゃっているんですよね。私が2000年代に大学に入った頃にもそういう動きはなかった。

星川:途絶えてはいないんですけどね。

斎藤:途絶えたように見えてしまうという。ここがどうしてそうなってしまったのかということと、それをどう広げていくかと考えたときに、たとえば有機農業などもいろいろな流派がバラバラになっていて、それぞれの方のそれぞれのやり方があって、なかなか一般化しづらい。ひとつの運動になりにくいとか、世界観が独特だとか、そういう問題の難しさも、私は最近感じています。気候変動の運動も、どうやって科学の知識も含めて広くつなげていくかというのが課題である。私自身はそこに足を突っ込んでいるわけではないけれど、そういうことを感じますね。

安部:星川さんがおっしゃったように、運動が途絶えているわけではないんです。ただ不可視化され、見えなくされている。地域の運動は綿々と続いているし、やっている人たちは世代交代を繰り返して、引き継いでいたりするわけです。私は、社会運動に参加したのは70年代後半くらいからですけれど、そのときに都市部でやっているとわからないけれど、たとえば有機農業の現場だとか、被差別部落に入っていって、50年代、60年代の終わりくらいから活動してきた人たちの話を聞くと、脈々とつながっていて時間軸が明確に流れている。反原発運動もそうだけれど、つながりが見えなくされているのはなぜかという問いが大事なところだと思います。

古沢:今日、たぶん参加されている中に教育関係の方もいらっしゃるんじゃないかと思いますけれど、日本の場合、教育の分野において校則の厳格化など、主体を形成していくプロセスが教育プログラムの中で不十分だった。やっと課題解決型への教育の重要性が認識されてきたのですが、先生自身が経験面でも実践面でもなかなか育っていません。最近はアクティブ・ラーニングが導入され始めていますが、社会問題への多面的な迫り方については、まだまだ力不足です。

そこで、ここは社会運動の流れとの重なりでどう見ていくのかということと、教育問題において社会的関係性をどういうふうに重ねられるかということだと思います。つまり社会的運動の現場と教育の分野の関わりで、どうつなげていくかというところが課題のように思います。

大学でも昔は自主講座運動などがありました。今はほぼなくなって久しいですね。サークル活動、ボランティア活動などはいろいろありますが、社会を変えていくための手掛かりとしては見えにくくなっている。身近な領域としては、フェアトレード運動や地域おこし的な取組みなどが広がっているので、社会起業家的なセンスの方が今どきの新しい動きなのかもしれません。他方、政治の領域において、どういうふうに考えるか。このあたりはかなりハードルがあるのではと思います。今の日本社会の流れでいうと、教育をめぐる問題がベースにあるのと、社会運動においても若者世代が政治的な問題まで組み込んで社会運動を形成していくところに、いろいろと課題を抱えているということですね。

星川:それでは最後に、理事の安部さんからまとめのコメントをお願いします。

安部:短い時間にもかかわらず、論点が多岐にわたったので、まとめるということは難しいのですが、ただ、お二人の議論の中で語られなかったことや、お二人のすれ違っている部分に重要なポイントがあるのかなという気がします。その点をいくつか指摘したいと思います。

まずお二人の対論が、「SDGsをどう評価するか」ということから始まりました。斎藤さんの『人新世の「資本論」』の中には極めて魅力的な二つの概念があって、ひとつは「ラディカルな潤沢さ」という概念ですね。これについて詳しくは斎藤さんの本を読んでいただきたいのですが、古沢さんも同じ内容のことをご著書で語っています。もうひとつは「脱成長コミュニズム」。これもまた魅力的な概念ですが、そのときに「コミュニズム」の内実を今後、ぜひ展開していただきたいと思います。

それと、お二人の議論の中ですれ違っているというか、まだ出てきていないのが、斎藤さんがちょっと言及されていましたけれど権力の配置についてです。チャットにもコメントがありましたけれど、われわれを支配している権力構造がどういうものなのか。われわれはどういう形で、どういう範囲で、おそらく日常生活まで支配しているものか。それらからわれわれはどう脱して抵抗していくのか。

抵抗点という話でいうと、古沢さんがお話の中で展開されていたSDGsとそれに関連する領域が抵抗するための地理的な空間になってくる。それと同時に、トップダウンのアプローチと組み合わせるということを、斎藤さんがおっしゃっていました。これについては星川さんがおっしゃっていたようにナローパスで、うっかりするとシンガポールのような環境ファシズムになりかねないというところもあります。その中で具体的な実践をどう構成していくのかという問題が残されています。

脱成長を実現するにはどうしたらいいのか、今の状況を脱するにはどうしたらいいのか、この点では問題意識は一緒だと思います。同時に、これも星川さんの指摘ですけれど、時間軸も大事で、これがないと議論が混乱しやすい。最近、混乱しているなと思うのは連合をめぐる議論で、労戦統一のプロセスでどういう闘いがあったのかを抜かしてしまうと、今、連合会長がなぜ共産党含めた野党共闘にあんなに反対するのかが見えなくなってしまう。

そういう意味でいうと、日本の社会運動は豊かで、押し込まれて負け続けてきたとしても、たくさんの人たちが関わって、情熱を傾けて、エネルギーを費やしてきたわけですね。それをどう引き継いでいくか。今日、参加している方は、私と同じ世代が多いと思いますが、これはわれわれの側の課題なのではないかと感じました。

要は、今のシステムからわれわれ自身が脱する必要がある。それは政党政治の枠にとどまらず、われわれの政治、ピープルズ・ポリティクスをどうつくっていくか、おそらくabtとして今後の課題になるのかなと思いました。

星川:安部さん、ありがとうございます。参加されているみなさんからもたくさんの質問やコメントをチャットにいただいて、それも取り込みながら対話を進めてきました。斎藤さん、古沢さん、どうもありがとうございました。